
62年前(昭和20年)の今日、8月14日(日本時間で15日)は、第二次世界大戦が終了したと、トルーマン大統領がラジオを通じて発表した記念日です。当時を知っているアメリカ人たちは、生涯で最高にハッピーな日だった、と回顧しています。
この戦争を振り返って見ると、史上最悪の戦いで、6千万人の死者を出し、その内の約3分の2が非戦闘員でした。その3年8ヶ月の戦争中に8人に1人のアメリカ人が何らかの形で戦争に参加し、これは一家に1人の割合で、総計6百万人が軍人か軍属として海外に派遣されました。その内40万人が戦死しているので、殆どの家庭が戦死者の誰かと関わりがあったことになります。死傷者を出した主な戦闘は、戦争の最後の年、1945年(昭和20年)に集中していました。特に硫黄島、沖縄の戦闘は、大戦中双方共に最多数の死傷者を出したほどの苦闘でしたから、殆どのアメリカ人は、戦争はもっと長引くであろうと観測していたのです。軍隊の統計専門家も、その後何百何千という死傷者を予測していました。
頑強に抗戦を続けていた日本が、広島、長崎の原爆投下の直後、あっけなく無条件降伏し、午後7時に終戦が発表されました。新聞は一面に『Japan Surrenders 日本降伏』の見出しをでかでかと掲げました。
時を移さず、全国の主要都市では、無計画のままに祝賀会やパレードが開催され、ニューヨークではタイムズ・スクエア(42丁目)に百万人の群衆が詰めかけましたが収容し切れず、南は40丁目から北は52丁目まで人々が溢れてしまいました。工場、汽船、汽車、自動車は、汽笛、サイレン、クラクションを鳴らし、教会は鐘を打ち続けました。戦争中、食料やガソリンが厳しく統制され配給制度だったのがにわかに開放されたので、車は満タンにして、所構わず乗り回しました。各家庭は、電力節約で夕方から電灯を消していたのが(空襲に備えての灯火管制ではありません)、一晩中明かりを付けっ放し、戦時中に育った子供たちは、生まれて初めて街灯の明かりを見たのです。 ある解説者の観測によると、人々の叫び声に「戦争に勝った」という勝利の叫びは聞こえず、皆「戦争が終わった」と叫ぶ平和の喜びの声ばかりだった、と分析しています。
この日の有名な写真は(上掲)、タイムズ・スクエアで一水兵が、見ず知らずの看護婦にキスしているシーンでした。その看護婦はイーデス・シェィン(Edith Shane)という名の女性で、後日その時の感慨を「キスされた時、私は眼を閉じていましたから彼の顔は見ていませんでした。でもそれは強烈な感慨で、この水兵は我々の為に戦ってくれたんだ、と考えていました。」これが次の週のLIFE誌の表紙を飾り、終戦のシンボルとしてその後何千何万と増刷されたのです。
戦後のアメリカ
同年(昭和20年)8月15日(日本の16日、公式に終戦が発表され、以後アメリカは史上最高の隆盛期を迎えるのです。戦時中、武器などの生産で製造効率を高めていた産業は、一般の消費者向けの製品の製造に方向転換しました。
1年後、デトロイトの自動車メーカーは、210万台の自動車を生産、前年の2,500パーセントという驚異的な生産率向上を達成しました。他の産業も例外なく、調理レンジ、皿洗い機、洗濯機、冷蔵庫、テレビなどの消費者製品の製造に切り替えました。
復員した将兵が家庭に戻り、配偶者たちとの縁が復活し、その9ヶ月後(日本で言う「十月十日」に当たる)、23万3千4百52人の新生児が誕生し、一ヶ月間の誕生記録を更新しました。ちなみに、1946年(昭和21年)間の新生児は総計340万人を数えました。アメリカで最多新人口の世代です。
従って何よりも不足していたのは住宅でした。50万所帯以上の家族がカマボコ兵舎(軍隊用のアルミ製の簡易住宅)に住み、新婚の夫婦の多くは両親の家に仮住まいしていました。政府は復員したGI(ジーアイ=兵隊)向けの住宅ローンを用意し、建設業者は何千何万という住宅建築に取りかかったのです。あるニューヨークの業者は、ロングアイランドの一地区に14万戸を建設して売り出しました。1戸の平均価格8,000ドル(当時の貨幣価値で320万円)、20年のローンで月毎の返済額が65ドル(約2万6千円)、各戸既に調理レンジ、冷蔵庫、洗濯機が設置され住宅価格に含まれていました。
政治家たちが時に「昔はよかった」話題を交わす時の『昔』とは、上記の終戦直後の時代を指しているのです。
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次便は、前後しましたが、『大統領の謀略』をお送りいたします。
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