2007年9月14日

第9便:大統領の謀略




(写真:左がルーズベルト大統領、グルー駐日大使(下)、野村吉三郎駐米大使(右))

昭和16年(1941)12月8日、日本軍の真珠湾攻撃をアメリカ側が事前に察知していた経緯について、私は目下執筆中の一部で記述しました。あらましは次の通りです。 「奇妙なことに、日本に駐在していたアメリカ大使グルー (Joseph Grew) は、奇襲の1年近くも前に、日本海軍がアメリカに戦争を仕掛けるであろう、という情報を探知していた。彼はその情報の信憑性(しんぴょうせい)について確認できなかったが、役目柄とにかくワシントンに報告した。グルーの報告を受け取ったアメリカ政府の高官たちの反応はまちまちだったが、ルーズベルト大統領を含めて、誰も真剣に対策を立てようとする気配をみせなかった、、、。」

ここで数便前にお知らせした『暗号解読』を思い出してください。当時アメリカの暗号解読技術は、難解な日本語に挑戦して、見事に解読を可能にしていたのです。そのことは極秘でしたが、日本側も電信が盗聴されていることを薄々承知していたので、手を変え品を変えして解読されまいという努力をしていました。アメリカの解読技術者たちは、一旦難解の壁を破ると、あとは次々と解読法を更新していったのです。

さて、以上を前提として、今から7年前、言い換えると大戦後55年経って、ロバート・スティネット(Robert B। Stinnett) という太平洋戦争のベテラン、アメリカ海軍の士官だった人が、『謀略の日(Day of Deceit)』という本を発表しました。副題が『真珠湾攻撃とルーズベルト大統領に関わる真相(The Truth about FDR and Pearl Harbor)』となっています。著者が半世紀以上もかけて調査した300ページ近い本の内容を全てお知らせするわけにいきませんが、本筋だけお伝えいたします。

先ず題名ですが、奇襲の直後、ルーズベルト大統領がアメリカ国民に所信表明をしたスピーチの中で、『その日』を『屈辱の日(Day of Infamy)』と呼んでいます。間もなくウォルター・ロードが同名の題でベストセラーを発表しました。スティネットの題名(Day of Deceit)は、明らかに往年の(Day of Infamy)を逆手にとった、と思われます。 スティネットの調査の発端は、アメリカ海軍が保存していた日本側の暗号解読の記録に抱いた疑問から始まり、その徹底追及に終わっています。それを可能にしたのは、彼の在任中を通じての輝かしい経歴でした。任期は大戦中で、その間彼は10個の勲章と大統領賞を与えられています。結論を急ぎましょう。

私の著述で、グルーから受けた日本軍の計画に関する報告に対して。「ルーズベルト大統領を含めて、誰も真剣に対策を立てようとする気配をみせなかった、、、。」と書きましたが、スティネットの本によると、それには裏があったのです。 グルーの情報源と別に、アメリカの海軍省は、独自の暗号解読の部門を持っていました。当時、駐米大使野村吉三郎、来栖三郎がワシントンに駐在し、日米交渉に当たっていましたが、彼らが東京と交わした報告、命令から始まって、帝国海軍、連合艦隊の交信に至るまで、全てがアメリカ側で盗聴され、解読され、記録され、ルーズベルト大統領に報告されていたのです。

すでにヨーロッパでは、ドイツのナチ軍が破竹の勢いで近隣の国々を席巻していましたが、アメリカは中立の立場を守り、国民も戦争に巻き込まれるのはご免だと、平和を享受していました。それでも、ドイツのUボートが大西洋に出没し、時にアメリカの船を沈めるなどの事件が屢々起こり、大統領としては、イギリスのチャーチル首相を支援してドイツに挑戦したかったのですが、国民の信頼を失うことを恐れていました。

折も折、海軍からの情報で、日本がアメリカを攻撃する計画を立てていることを知りました。大統領は、心の中で快哉を叫びました。日本が先に攻撃を仕掛けてきたら、「応戦」という大義名分をもって、日本とその同盟国であるドイツにも宣戦を布告できる、と考えたのです。

更に、日本軍の目標が、アメリカの太平洋艦隊が集結するハワイであることも知り、以後、ハワイに駐留しているキンメル司令長官に情報を送ることを差し止めたのです。 結果はご承知の通りです。

日本海軍の連合艦隊司令長官、山本五十六が立てた「奇襲」攻撃計画は「成功」し、ルーズベルト大統領は「屈辱の日」を挽回するため「止むに止まれず」宣戦を布告し、アメリカ国民は、思惑通り大統領の決断に諸手を挙げて賛同してくれたのです。
ルーズベルトは、戦争に関わりたくなかった国民を説得する努力をせずに、アメリカ人の殆どが日本、ドイツ、イタリーに対して敵愾心(てきがいしん)を燃やしてくれたのです。

ここで私は当惑し、思案いたしました。スティネットの『謀略の日』が、単なるセンセーショナルズムを狙った暴露本だったらためらうことなく無視できたのですが、著者の経歴といい、彼の徹底した調査法といい、十分な信頼性が感じられ、私はそれが真相だったと説得させられたからです。としたら、私の一文「ルーズベルト大統領を含めて、誰も真剣に対策を立てようとする気配をみせなかった、、、。」の箇所を訂正する必要があるかどうか、慎重に考えてみました。結論として、訂正しないことにしました。理由は二つあります。


一つは、ルーズベルトが真珠湾攻撃を知りながら、太平洋艦隊の司令官キンメルに防衛対策を立てる機会を与えなかったことは、「奇襲」という形で日本側に攻撃を「成功させたかった」からです。言い換えると、山本司令長官の作戦は、まんまとルーズベルトの謀略に乗せられて成功したことになります。そうした筋書きに変更をするとなると、山本五十六の存在意義から、勝敗に関わらず全ての戦闘の意味合いまで異なってしまいます。私は著作に感情を交えないことにしていますが、少なくとも山本長官だけは「悲劇の英雄」にしておきたかったからです。

二つ目は、緒戦から敗戦までの経過は、全て過去の歴史で、ルーズベルト大統領の思惑に言及してもしなくても変わることがないからです。


私は著述の内容を変更しない代わり、公正を期するため、『謀略の日』という本があることを読者に知らせることにしました。もし貴方が、そうした「真相」にご興味がありましたら、多分日本語に翻訳されていると思いますので、一読をお勧めいたします。
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2007年8月24日

第7便、銃後


『銃後』という言葉を覚えていますか?コンピューターで「じゅうご」と入力したら出てきませんでした。どうやら死語になってしまったようです。それもそうでしょう、日本では太平洋戦争が終わってから60年以上も平和なの年月が続いたのですから、アフリカや中近東の人々に比べたら幸せという他はありませんね。

平和に慣れ切っている皆様に、戦争中の話しをするのはいささか気が引けますが、たまに当時の日々を偲んでみるのも、平和のありがた味を感謝するのに役立つのではないかと思います。

『銃後』の反対語は『前線』です。この場合、前線とは『気圧前線』とかの気象用語ではなく、銃をとって敵と戦っている軍隊とか、その戦場を指し、従って『銃後』とは直接戦っていない国民、そして戦場でない本国のことです。

今日のアメリカがそうですが、戦争に巻き込まれると、国家予算の半分近くが軍事費に回され、勝つためにはそれでも足りないからもっと予算を増やせ、と圧力がかかり、そのしわ寄せが国民の生活費に及んできます。

日本ではこの現象が日本が支那(中国)と戦いを始めた昭和12年(1937)から起こりました。先ず槍玉に上がったのはガソリンだったのですが、当時、自家用車を持っている家庭が殆どなかったので我々庶民は一向に痛痒を感じませんでした。それも束の間で、主食の米が配給制となり、分量も限定され、国民は慢性的な空腹をかかえ始めたのです。米は白米から七分搗き、やがて不足分を補うために麦を加えるようになりました。米に続いて砂糖、その他の食料が次々と欠乏し、レストランはおおむね開店休業、雑炊(ぞうすい)食堂だけが残り、スープ同然の粥一杯を求める客が行列を作りました。

食料の次は衣料が配給制限の対象となり、木綿、毛織物、は兵隊の制服に、絹はパラシュートに優先し、それに替わって木材の繊維を使ったステーブル・ファイバー、略してスフが登場し、庶民の衣服の材料となり、革靴は牛革製は兵隊に、庶民の靴は豚革とかクジラ革で作られるようになりました。

金銀などの貴金属製品ーー指輪、時計などーーは半ば強制的に供出(寄付と言わず)させられ、結局使われず、持ち主には返されず、どこかへ消え、何の役にも立たなかったようです。

「欲しがりません、勝つまでは」、、、ある子供が応募して選ばれた標語が全国的に広がったのは太平洋戦争が始まった昭和16年前後だったと思います。

アメリカの銃後
日本に比べ、物質的に豊かだったアメリカでも、膨大な軍事予算のしわ寄せで国民の生活は節約を余儀なくされました。

既に一家に一台のクルマ生活を達成していたアメリカで、ガソリンの配給制度は衝撃的な打撃を与えました。自動車メーカーは乗用車の生産を中止し、軍用車両の生産に100パーセント投資したため、古い車を大事に使い、遠出を慎むようになり、続いて食料、タバコなどが制限配給制の対象となりましたが、空き腹を抱えるほど追いつめられてはいなかったようです。

こうした制限制度は、1941年(昭和16年)に新設された価格統制局(Office of Price Administration—OPA) で設定されるようになり、同局が直面した最大の困難はタイア用ゴムの不足でした。当時、ゴム生産の中心地、東南アジアが日本に征服されていたためです。
皮革製品は軍用優先だったため、制限の対象にはなりましたが、豚革で代用するほど緊迫してはいませんでした。

フィリッピンが日本に占領されていたので、同国製の砂糖が輸入できず、また輸送船が軍用に回されていたため、南米産のコーヒーが絶たれ、代用品の大豆や麦などで間に合わせざるを得ない状況でした。食料で一番深刻だったのは、牛肉の不足でした。日本での米不足に匹敵します。これも軍隊向けが優先したからです。総生産113億キロの牛肉から27億キロが兵隊の胃袋向けに回されていました。この時期にアメリカ人の多くが初めて馬肉やウサギ肉を試食したということです。こうした現象が牛泥棒や、ブラックマーケット(闇市)の発生を促したのです。

新鮮な野菜や果物も、輸送事情の困難から不足と価格の高騰をもたらしました。最大の生産を誇っていたカリフォルニアから、その三分の一の生産を担っていた日系人農民を強制収容したことも青果不足に輪をかけたのです。それがヴィクトリー・ガーデン(勝利の菜園)と呼ばれる家庭菜園を普及させる動機を生み、最盛期には全国推定2千万のヴィクトリー・ガーデンが存在し、100万トンの青果の生産を上げ、価格に換算すると8千500万ドルにも上ったということです。













紙も不足し、出版物を小型にするとか、活字を小さくすとかの対策で応じました。







成年男子の入隊が労働力不足をもたらしたのは日本の場合と同じです。女性の職場進出は目覚ましく、従来男でなけらばできない、と思われていた工場での機械工のような仕事に女性が積極的に働くようになりました。




こうした物資欠乏、人手不足の時代に、アメリカの国民は政府が発行したボンド、いわゆる国債を買い求め、39億ドルの国家予算の半分近くの16億ドルを補ったのです。この国債がその後どうなったか、生憎資料がみつかりません。日本での場合は、敗戦後、国債はインフレと共に価値が下落の極に達し紙くず同然になった、と私は記憶しています。











平和に慣れた皆様方も、戦争が如何に非戦闘員の人生に苦しく悲しい思いをもたらすか、ご想像ください。『銃後』という言葉が永遠に死語であり続けることを願います。
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次便は『アメリカの終戦』をお届けいたします。

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2007年8月15日

第8便:アメリカの終戦


62年前(昭和20年)の今日、8月14日(日本時間で15日)は、第二次世界大戦が終了したと、トルーマン大統領がラジオを通じて発表した記念日です。当時を知っているアメリカ人たちは、生涯で最高にハッピーな日だった、と回顧しています。

この戦争を振り返って見ると、史上最悪の戦いで、6千万人の死者を出し、その内の約3分の2が非戦闘員でした。その3年8ヶ月の戦争中に8人に1人のアメリカ人が何らかの形で戦争に参加し、これは一家に1人の割合で、総計6百万人が軍人か軍属として海外に派遣されました。その内40万人が戦死しているので、殆どの家庭が戦死者の誰かと関わりがあったことになります。死傷者を出した主な戦闘は、戦争の最後の年、1945年(昭和20年)に集中していました。特に硫黄島、沖縄の戦闘は、大戦中双方共に最多数の死傷者を出したほどの苦闘でしたから、殆どのアメリカ人は、戦争はもっと長引くであろうと観測していたのです。軍隊の統計専門家も、その後何百何千という死傷者を予測していました。

頑強に抗戦を続けていた日本が、広島、長崎の原爆投下の直後、あっけなく無条件降伏し、午後7時に終戦が発表されました。新聞は一面に『Japan Surrenders 日本降伏』の見出しをでかでかと掲げました。

時を移さず、全国の主要都市では、無計画のままに祝賀会やパレードが開催され、ニューヨークではタイムズ・スクエア(42丁目)に百万人の群衆が詰めかけましたが収容し切れず、南は40丁目から北は52丁目まで人々が溢れてしまいました。工場、汽船、汽車、自動車は、汽笛、サイレン、クラクションを鳴らし、教会は鐘を打ち続けました。戦争中、食料やガソリンが厳しく統制され配給制度だったのがにわかに開放されたので、車は満タンにして、所構わず乗り回しました。各家庭は、電力節約で夕方から電灯を消していたのが(空襲に備えての灯火管制ではありません)、一晩中明かりを付けっ放し、戦時中に育った子供たちは、生まれて初めて街灯の明かりを見たのです。
ある解説者の観測によると、人々の叫び声に「戦争に勝った」という勝利の叫びは聞こえず、皆「戦争が終わった」と叫ぶ平和の喜びの声ばかりだった、と分析しています。

この日の有名な写真は(上掲)、タイムズ・スクエアで一水兵が、見ず知らずの看護婦にキスしているシーンでした。その看護婦はイーデス・シェィン(Edith Shane)という名の女性で、後日その時の感慨を「キスされた時、私は眼を閉じていましたから彼の顔は見ていませんでした。でもそれは強烈な感慨で、この水兵は我々の為に戦ってくれたんだ、と考えていました。」これが次の週のLIFE誌の表紙を飾り、終戦のシンボルとしてその後何千何万と増刷されたのです。

戦後のアメリカ
同年(昭和20年)8月15日(日本の16日、公式に終戦が発表され、以後アメリカは史上最高の隆盛期を迎えるのです。戦時中、武器などの生産で製造効率を高めていた産業は、一般の消費者向けの製品の製造に方向転換しました。

1年後、デトロイトの自動車メーカーは、210万台の自動車を生産、前年の2,500パーセントという驚異的な生産率向上を達成しました。他の産業も例外なく、調理レンジ、皿洗い機、洗濯機、冷蔵庫、テレビなどの消費者製品の製造に切り替えました。


復員した将兵が家庭に戻り、配偶者たちとの縁が復活し、その9ヶ月後(日本で言う「十月十日」に当たる)、23万3千4百52人の新生児が誕生し、一ヶ月間の誕生記録を更新しました。ちなみに、1946年(昭和21年)間の新生児は総計340万人を数えました。アメリカで最多新人口の世代です。

従って何よりも不足していたのは住宅でした。50万所帯以上の家族がカマボコ兵舎(軍隊用のアルミ製の簡易住宅)に住み、新婚の夫婦の多くは両親の家に仮住まいしていました。政府は復員したGI(ジーアイ=兵隊)向けの住宅ローンを用意し、建設業者は何千何万という住宅建築に取りかかったのです。あるニューヨークの業者は、ロングアイランドの一地区に14万戸を建設して売り出しました。1戸の平均価格8,000ドル(当時の貨幣価値で320万円)、20年のローンで月毎の返済額が65ドル(約2万6千円)、各戸既に調理レンジ、冷蔵庫、洗濯機が設置され住宅価格に含まれていました。


政治家たちが時に「昔はよかった」話題を交わす時の『昔』とは、上記の終戦直後の時代を指しているのです。
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次便は、前後しましたが、『大統領の謀略』をお送りいたします。

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2007年7月28日

第6便: 『昨日の敵は、、、』


また小学唱歌です。明治38年(1905)日本が初めて白人の大国ロシアに勝って、陸軍の乃木希典将軍がロシアの指揮官ステッセル将軍と和解の会見をした状況の歌が小学唱歌に採用されました。全歌詞は覚えていませんが、所どころ強烈に記憶に残っています。「旅順(りょじゅん)開城約なりて、、、」、「弾丸(だんがん)跡も著しい」、「崩れ残れる民\屋(みんおく)」で、「今ぞ会(あい)見る2将軍」、「所はいずこ水師営(すいしえい)」、といった具合です。
要するに、勝敗はともかくとして、敵味方だった二人の将軍たちが、お互いにお互いの武勇を褒め讃え、「昨日の敵は今日の友、、、」となる、人間愛に溢れたメデタシの結末を迎える美談を歌い上げたものでした。こうした賛歌が、前便の楠父子の『桜井の別れ』と同様に、我々世代の「小国民」に軍人精神と愛国心を強烈に植え付ける効果をもたらしました。私は、ここで乃木大将とステッセル将軍との間に、果たして友情が生まれたかどうか、を詮索したり、軍国主義を批判するつもりは毛頭ありません。ただ、太平洋戦争の最中に起こった「捨て難い話」を皆様にご紹介する糸口として申し上げたのです。

ちょっと脱線しますが、最近の朝日新聞「天声人語」欄で、三越と伊勢丹の合併について、「昨日の敵は今日の友」なる表現を引用していました。「友」にも「級友」、「旧友」、「悪友」などと様々な「友」がありますが、企業の合併となると、いずれの「友」にも属さないように思います。合併は、資本主義国家の歴史をひもとけば、数え切れないほどの例が転がっています。最近、トヨタに販売量で遅れをとりましたが、世界一を誇っていた自動車会社GMは、合併の繰り返しで発展した企業です。フォード、クライスラーも例外ではありません。銀行、精油、果てはコンピューター産業まで、あらゆる分野で、殆どの企業が弱肉強食の合併を繰り返して巨大化してきました。合併の理由は言うまでもなくより大きな利益の追求に他なりません。「友情」が生まれるか、「友情」で結ばれるかは、論外でしょう。


太平洋での日米の戦いは、前述しましたが、昭和17年(1942) のミドウエイ海戦以後、アメリカが攻勢に転じ、日本が守勢に立たされました。帝国大本営は、「絶対国防圏」という縄張りを設定して、そこでアメリカの侵攻を阻むべく指令を発しました。ソロモン諸島はその圏内で、ガダルカナル島は死んでも守れ、と全将兵を叱咤したのです。


アメリカの攻撃は、陸、海、空、と立体的な作戦でした。太平洋に散在する島々の攻防には当然の作戦で、日本側も、陸、海、空、の守りに命を賭けていました。中でも空の攻防は、スピードの面でも、破壊力の面でも、最前線の活動が期待されていました。
当時は、三菱のゼロ式戦闘機(略してゼロ戦)が花形で、その優れた性能や操作性を誇っていました。弱点といえば、軽量化に徹したデザインだったため、優れた攻撃能力を持っていたのですが、守勢になると傷つき易いという欠点がさらけ出されました。
それに反して、アメリカの戦闘機は、防御性に重点を置いていたので、弾丸が当たっても容易に損傷しないという強みがありましたが、重量だったため、速攻性に難点がありました。しかし、それも改良され、より強力なエンジンを搭載し、攻撃態勢にも向くような新型が登場してきました。その先端がグルマン社の戦闘機、F4Fワイルドキャットです。1942年当時は、日米ともに多数の優秀なベテラン、パイロットが活躍していました。

同年、10月25日の早朝、山本五十六長官が率いる連合艦隊が空海からの攻撃で、アメリカ軍を一挙に壊滅しようという作戦に出てきました。『暁(あかつき)』、『雷(いかづち)』、『白露(しらつゆ)』、3隻の駆逐艦が、ガダルカナルの東沿岸に接近、アイアン・バトム湾からヘンダーソン飛行場に対して艦砲射撃を開始、同時刻にアメリカの空母が南から迎撃に向かいました。

午後2時半頃、日本の戦闘機ゼロ戦6機が、飛行場は壊滅された頃だろうと予想して飛んできましたが、予想に反して一足早くアメリカのワイルドキャット戦闘機隊が到着、息もつかずにゼロ戦と対決するために舞い上がりました。ジョー・フォス大尉と、ジャック・コンガー少尉も、そのパイロット達の中に混じっていたベテランでした。

先ず、フォス大尉がゼロ戦2機を撃ち落としましたが、彼自身のワイルドキャットも銃弾を受けて危うくなったので、一旦飛行場に戻り、他の戦闘機に乗り換えて再び舞い上がり、また2機のゼロ戦を撃ち落とし、ガソリンを使い果たしたので基地に引き返しました。

一方、コンガー少尉もゼロ戦を1機撃ち落とし、最後の1機を追跡し始めました。ところが、機関銃の引き金が作動しません。銃器なし、という状態のまま追跡を続け、ついに追いつき、自機のプロペラでゼロ線の尾翼を下から突き上げたのです。ゼロ戦は大きく揺らめき、2つに分解してしまいました。
それと共に、コンガー少尉のワイルドキャットも真っ逆さまになり落ち始めたのです。
海面がぐんぐんと迫ってきました。脱出しようと焦り、しばらくもがき、機が海に墜落する直前にやっと抜け出し、パラシュートが開きました。海面までの距離が短かかったため、着水に強かな衝撃を受けはしましたが一命はとりとめました。それと同時に彼のワイルドキャットは、海面に墜落し、水しぶきを上げて沈んで行きました。

コンガー少尉も一旦は沈んだのですが、パラシュートの紐がからんでいたため、再び水面に浮かび上がりました。彼と同じような運命を辿ったのでしょうか、僅か7メートルほど先に日本人のパイロットが浮き沈みしているではありませんか。
その時アメリカの救助艇がコンガー少尉を目指し、水しぶきを上げて近づき、彼を引き揚げてくれました。

次は日本人パイロットの引き揚げです。日本人は、息を深く吸い、一旦潜水してからボートの側に浮かび上がり、側面を強く蹴って泳ぎ逃げようとしました。コンガー少尉は急いで長い鈎棒をつかみ、日本人に差し出しました。すると日本人は脇の下から拳銃を取り出し、目の前に迫っているコンガー少尉のこめかみに突き付け、引き金を引いたのです。


カチッ。コンガー少尉は仰向けに倒れ、咄嗟に「死んだ」と感じた、ということです。日本人はこの失敗で絶体絶命だと思ったのでしょうか、今度はピストルを自分の頭に突き付けて引き金を引いたのです。カチッ。これも不発でした。
「生き返った」コンガー少尉は、手近にあったバケツで日本人の頭を叩いて気絶させ、やっと彼をボートに引き揚げることができました。


さて、話はここで終わっています。いや、正確に言うと、結論に飛んでいるのです。その結論とは、「こうした機会がもとで、二人の敵味方は、以来良き友人となった。」

私には、その欠けた経緯をある程度想像できますが、それは私の小説的な憶測の域を出ていません。「事実は小説よりも奇なり」と申します。もし何方か、その「欠けた経緯」をご存知でしたら、お教えください。そして、その日本人パイロットの名前も知りたいと思っています。 ------------------------------------------------------------------------
次便は『銃後』をお送りいたします。


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2007年7月12日

第5便: 暗号の解読

暗号の解読

20世紀の初め、ラジオ、つまり無線技術が実用化され、通信にも利用され、その便利さが認められるようになりました。例えば、陸から離れた海上にいる船との交信は、天候の変化などで危険に陥った場合に、位置を知らせたり、状況を報告して救助を求めるのに役立ちました。無線ですから、部外者が傍聴することも可能です。しかし「救助の要請」が傍聴されるのでしたら、最も近くにいる部外者が救助するという利点もありますが、その反面、特定のグループの間で、外部に知られたくない交信も部外者が盗聴できるという不都合な可能性も生じました。そこで登場したのが『暗号』を使う方法です。

暗号の歴史は、古代ギリシャに遡ります。数学や物理の得意な方でしたら、とっくにご存知のことと思いますが、改めて基礎から復習してみましょう。

暗号には種々の『コード』がありますが、基本的には文字の入れ替えを内部だけで予め打ち合わせしておく方法です。西欧ですとアルファベットとか数字が言語の基本です。日本語の場合は、カナ文字と数字がそれに相当します。当時の無線は技術的にまだ漢字が使えませんでした。(以下、ABC でご説明いたします。)
左の図は、アルファベットの表を作り、その縦横に数字を当てがい、縦1と横1に位する文字は「A」、12=B, 21=F, といった具合です。

右の図は、第1列が基本のアルファベット、第2列は同じアルファベットですが4文字だけずらした、後述『サイファー』の原点です。
いずれの場合も、元の文章のアルファベットを『コード』文字に変更して送ります。受け取った側は、送る側の逆方法で、基本のアルファベットに戻すことで判読できるのです。これが暗号コードの初歩的な方法でした。

その他に、言葉自体を変えておく方法もあります。例えば、「真珠湾攻撃を開始」の指令が「ニイタカヤマノボレ」、その「成功」が「トラ、トラ、トラ」といった具合です。この件については省略いたします。

英文の暗号コードを部外者が盗聴して、『解読』の必要に迫られたとします。昨年のブログで、シャーロックホームズの解読に触れましたが、英文の特長は、次の第3図をご覧になれば一目瞭然ですが、頻繁に使われる文字と、滅多に使われない文字の平均的な比較です。よく使われる文字は、E,T,A,O,N,I, が上位で、余り使われない文字は、J,K,X,Q,Z, 順で下がります。先ず『コード』文で最も多く使われている文字を探し出し「E」を当てはめる作業から始めます。後は、根気と理詰めの戦いです。

1910年頃、イギリスはドイツとの国交が険悪になり、一触即発の状況でした。ドイツの潜水艦が北大西洋に出没し、盛んに本国と無線で暗号交信しているのを盗聴したイギリスは、『暗号解読』の必要に迫られ、技術者を集め、極秘裏にその本部をアドミラル・ホールに設置し本格的な活動を開始しました。(写真)
1914年8月、イギリスは沈没させたドイツの潜水艦から、コード・ブックを発見し、それ以来解読能力は急速に進歩し、同盟国のアメリカにもその技術が伝えられたのです。1918年ドイツが敗北して第一次大戦は終了しましたが、世界的な緊張は却って高まっていきました。1921年の軍縮会議で各国の軍艦保有量が提案され、日本は米英に比べて半分という割当てに不満をもち、特に軍部が反発しました。こうした事情の背景には、常に暗号による交信が、出先外交官と本国との間で交わされたことは想像に難くありません。そしてこうした交信が常に欧米各国で盗聴されていたのです。意外なことに、ポーランドで優れた暗号解読者が台頭していました。ドイツの脅威を予想していたせいかも知れません。
一方、暗号を送る側も、解読されまいという努力を怠りません。従来の文字と数字による『コード』に代わって、『サイファー』という機械に依存する方法がドイツで開発され実用化されるようになりました。これは、基本的にはタイプライターと同じメカニズムで、オペレーターは普通のタイプライターと同じ操作でタイプ文書を打ち、それが印字される前に、機械がコード文字にすり替えてしまうのです。受信する側は、同じ機械を使って全く逆のプロセスでコード文字を元のタイプ文書に復活させます。これがドイツで開発された『エニグマ』(Enigma とは、文字通り「不可解な言葉」という意味)という機械でした。文字変換部を簡単にご説明すると、円盤の周囲にアルファベットが並び、その反対側に変換用のアルファベットが並んでいます。表と裏の円盤は位置をずらすことができるので、ABC 26文字として26種の組み合わせの変化ができるという計算です。更にこの組み合わせを複雑にするために、同種の円盤を3個、5個と増やすと、組み合わせの数は2万種という驚異的な数に増加させることができるのです。こうして組み合わせを一日に3回も変更するのですから、解読する側も容易ではありません。

1920年代の後半、アメリカ陸軍はウイリアム・フリードマンという数学者を暗号解読者として採用し、本格的に作戦に参加させることにしました。彼の奥さんも暗号解読の技術を身に付けていました。加えてフランク・ロウレットが参加し、強力なチームワークがとれるようになったのです。対ドイツだけでなく、日米関係も険悪になっていった頃です。日本語の暗号解読も次第に必要に迫られてきました。


当時日本の暗号は、ドイツの技術に倣った『サイファー』で、『パープル』という名の機械を使っていました。アメリカ人にとって困難だったのは、日本の暗号が陸軍、海軍(JN-25)、それに外交用と、別々に分かれていたことが一つ、カナ文字だけでも英文26文字の倍近い48文字だったことが二つ、そして、同音異語をどう解釈するかの三つが、英文にはない障碍でした。しかし1940年までにその障碍を乗り越えて、アメリカ・チームは日本語の暗号解読を果たしたのです。ワシントンで日米外交に当たっていた野村吉三郎、来栖三郎、両大使たちの本国との交信は、殆ど解読されていました。日本がいずれはアメリカを攻撃するであろうことも察知されていましたが、ただ目標だけは不明で「フィリッピンではなかろうか?」という予想が圧倒的でした。真珠湾攻撃が成功したのはその為とも言えます。

しかしその6ヶ月後、たった4分の遅れをとった為、ミッドウエーで空母4隻も失うという海戦の敗退も、1943年、山本元帥の搭乗機が襲われたことも、そして数えきれないほどの情報の面での遅れは、ただでさえ勝ち目の無い戦争を強行していた日本にとっては致命的な欠陥でした。

私は、日本がアメリカとの戦いに敗れたことを悔やんでいるのではありません。ただ一重に、この世の中に秘密がなく、暗号を送受する必要がなく、正直に、率直に、誰とでも(テロリストも含んで)対話ができるようになったら、、、と夢想しているのです。それは「甘い夢だ」などとお考えにならないでください。
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次便は『昨日の敵は』をお送りいたします。

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2007年6月19日

第4便:バンザイ・チャージ

バンザイ・チャージ

    青葉茂れる桜井の、里の辺りの夕まぐれ、
    木の下陰に駒寄せて、世の行く末をつくづくと、
    偲ぶ鎧(よろい)の袖の縁(え)に、散るは涙か、はた露か。

   これは、私の世代が小学校で習った唱歌、『桜井の別れ』の第一節で、未だに脳裏にこびりついています。14世紀の初頭、あの楠木正成(くすのき、まさしげ)が、朝敵(ちょうてき、、、反天皇の一族で、「賊」とも呼ばれた)足利尊氏(あしかが、たかうじ)と対決するため兵庫の湊川へ向かう途路の桜井の駅で、息子の正行(まさつら)と別れる場面です。
   正成は、この時点で、湊川での対決が勝ち目のない戦で、討ち死には免れないことを十分に承知していました。では何故?

   正成にとって、「勝ち負け」よりも、「天皇への忠誠を身をもって示す」ことの方が重要だったのです。その時「七たび生まれ替わって朝敵を滅ぼさん」という名言を残し、予想通り、正成の率いる軍勢は戦いに敗れ、自らも討ち死にしました。そして更にその先も予想通り、正成の「犠牲的な精神」が、全国に散在していた天皇派の士族を刺激して蜂起させ、結果として足利尊氏は滅ぼされ、天皇の地位を復活させるのに役立ったのです。

   天皇は正成の忠誠を褒め讃え、楠木家一族に天皇家の紋章である『菊』を与えました。一族は一旦辞退しましたが、菊の半分を水に流し、『菊水』を紋章として拝受することになりましたこの一事が美談として伝えられ、昭和初期の唱歌の重要な一曲に加えられ、私たち小学生の天皇に対する忠誠心を養ったのです。

   さて、ここで一抹の疑問が生じます。果たして、「天皇側が常に絶対的な正義であり従って『善』で、それに反逆する者は『悪』である」という観念が正しかったのでしょうか?でも、この疑問の是非を論ずるのは、今便の目的ではありませんので、後日改めて提起いたします。

    ともあれ、正成の「犠牲的な精神」は、小学生から始まって、当時の日本国民の全てに基本的な道徳として教えられ、特に軍人たちは「死を恐れぬ」覚悟と共に徹底的に叩き込まれたのです。この精神が前便の『捕虜』になることを恥じ、むしろ死に物狂いで敵にぶつかるという行動を賞賛する傾向を生みました。駿馬にまたがった楠木正成の銅像が宮城前に、爆弾筒をかかえて敵の鉄条網に突っ込み、爆破して果てた肉弾三勇士の彫刻が東京神田の街頭に、それぞれ設置され、日夜、何千何万という通行人の目に触れ続けました。

   こうして大日本帝国陸海軍の『軍人精神』は、着実に定着し、昭和12年の支那事変から、昭和16年の太平洋戦争へと拡大してゆきました。12月8日の真珠湾攻撃は計画通り成功し、日本の軍事的勢力は疾風迅雷の勢いで東南アジアから南太平洋を席巻しましたが、翌昭和17年、6月のミッドウエィ海戦で主力航空母艦を失い敗退して以来、守勢に立たされました。

    昭和17年の後半から、ガダルカナルを含むソロモン群島、ニューギニア沿岸の日本の守備軍は次々と敗退してゆきました。上陸、攻撃するアメリカの海兵隊の死傷者も相当な数にのぼりましたが、島々の守備隊は、戦う度に「全滅」するまで抵抗を続けました。「今はこれまで、、」という勝ち目のない事態に陥った時、守備隊の生き残りは銃剣を握り、手榴弾を掴み、あるいは日本刀を振りかざし、敵陣に突入して行ったのです。決死の攻撃は夜間が選ばれました。敵が油断しているだろう、という予想からでした。奇声を発し、武器を振りかざし、「天皇陛下ばんざーい!」と叫び、がむしゃらに突っ込んだのです。

   こうした攻撃は、海兵隊の若い新兵たちを脅かすには十分でしたが、機関銃の弾幕を避けることはできず、最後の一兵まで撃ち殺されてしまいました。正に湊川の戦いで敗れて散った楠木正成の精神を実践していたのです。これが度重なると、アメリカの海兵隊も慣れて、「今夜あたり日本兵の『バンザイ・チャージ』が来るぜ」と、それなりの対抗策をとるようになりました。

昭和18年の後半、タラワ、マキン島などの珊瑚礁の島々での攻防戦あたりから、日本守備隊は、コンクリート壁の地下壕に潜って徹底抗戦という作戦に変っていきました。これで、アメリカの海兵隊を著しく悩ませたのですが、結局は『バンザイ・チャージ』で次々と「玉砕」してしいきました。

   昭和19年の夏、マリアナ諸島のサイパン島、テニアン島、ガム島、が陥ち、日本列島はアメリカ爆撃機の射程距離に入り、『絶対国防圏』と設定した日本の縄張りが狭まったため、大本営では『捷(しょう)一号』、『捷二号』、『捷三号』、『捷四号』という決戦作戦を立てました。『捷(しょう)』とは『勝(しょう)』に通じる、という文字の遊びとしか思えない無意味な作戦です。『捷一号』はフィリッピン、台湾辺りで、『捷二号』は沖縄辺りで敵の侵攻を食い止める、という積もりだったのでしょう。

   加えて、『菊水作戦』が立てられました。何のことはない、楠木正成の「死を賭して敵に向かう」精神をなぞらった作戦で、残り少ない飛行機に爆弾を積み、パイロット諸とも敵艦に突っ込んで沈没させようという考えでした。正式な『神風』特攻隊の誕生です。大半が無駄死にで、アメリカの攻撃を止めることはできませんでした。

   
硫黄島が玉砕し、沖縄が危うくなった時、あの世界最大級の戦艦『大和』に沖縄援護の出撃命令が下されました。『菊水作戦』の本番です。でも艦長の伊藤整一中将は(下中央の写真)、空母の護衛なしで戦艦を無傷で沖縄まで航行させるのは不可能だ、と不服を唱えました。それに対して連合艦隊参謀長の草鹿龍之介(くさか、りゅうのすけ)中将は「日本国民全員が本土決戦を前に死ぬ覚悟でいる。大和には、その国民の先魁(さきがけ)になってもらいたいのだ」と応えたのです。言い換えると、大和が撃沈されても構わない。武勇伝を残してくれればよいのだ、ということだったのです。伊藤中将は、草鹿の言外の意味を汲み取り、出撃命令を受け、巡洋艦、駆逐艦を伴って沖縄へ向かいました。「大和」艦隊が鹿児島、薩摩半島の沖に達した時、100機の艦上爆撃機に襲われて被爆、更に第2波140機の攻撃も受け、最後に第3波100機余りに止めの魚雷数本を打ち込まれ、さすがの巨艦も耐えきれず沈没、直後爆破してしまいました。今日でも、大和は苔むして海底に横たわっています。大和3009名の乗組員の内、2733名が艦と運命を共にしました。大和の舳先に取り付けてあった菊の紋章が『菊水作戦』の末路を象徴していたようです。(下左の写真は、数年前に日米仏の潜水エキスパートが撮影したもので、直径2メートルの菊の紋章が確認されました。)

   昭和20年の4月、たとえ戦艦大和の救援があったとしても、沖縄陥落は時間の問題でした。アメリカ軍の次の目標は九州攻略、つまり日本本土の侵略です。日本の運命は正に「風前の灯火」、でも軍部は「最後の勝利」を叫び続け、『決号(けつごう)』と名付けた本土決戦作戦を発表しました。これは、軍人だけでなく、老若男女を問わず、非戦闘員の日本人全てが「最後の一人が死ぬまで戦う」ことを義務づけた作戦計画でした。勿論まともな武器などはありません。竹竿の一端を鋭く削った『竹槍』をあやつる戦闘訓練が大真面目で始められました。各自「一人一殺」、アメリカ兵を一人だけでよいから殺せ、というのが目標の命令でした。

    同時期に、私ども予科練生の中から何人かが選ばれて、『伏龍(ふくりゅう)作戦』の訓練を受けるため横須賀の南、久里浜へ向かいました。『伏龍』は、爆弾を身に付け、アメリカ軍が上陸するであろうと予想される沿岸の水中に潜み、上陸用舟艇を爆破する、という使命を負っていました。いずれも『バンザイ・チャージ』の変形です。

  8月6日と9日に原爆が広島と長崎にそれぞれ落とされ、天皇がポツダム宣言を受諾し降伏したため、不幸にして幸、『竹槍』と『伏龍』による『バンザイ・チャージ』は実現しませんでした。

   敗戦から60余年経った今日、時たまアメリカ人から『バンザイ』の意味を聞かれると、私は返答に窮します。というのは、彼らに『バンザイ』を説明するには、日本の神話的な歴史から、天皇の尊厳性、そして日本人の天皇に対する特殊な思いまで解説しなけらばならなりません。そして私にとって、そうした全てが遠い過去になってしまったからです。

   でも「一生に一度だけ」と思い直し、過去になってしまった私の思い出を掘り起こし、シコシコと書き綴り、繋ぎ合わせている昨今です。
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次便は、『暗号』についてお伝えします。
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2007年6月9日

第3便:捕虜

捕 虜

日本の武士は、伝統的に「捕われることを不名誉で恥ずべきこと」という認識にこだわっていました。その意識が「生きて虜囚の辱めを受ける」よりは「死」を選ばせることになったのです。
そ の代表的な例が、上海事変で中国軍に捕われた空閑昇(くが、のぼる)少佐です。昭和7年(1932)2月、捕虜交換で釈放されて帰国した空閑少佐は、捕虜 になったことを恥じ、その償いとして自らの命を絶ってしまいました。時の陸軍大臣荒木貞夫は、空閑少佐を「軍人の鑑(かがみ)」として口を極めて褒め讃 え、後に靖国神社に祀られることになったのです。一般の中には、「せっかく命拾いをしたのに」と同情する人々もいたのですが、大臣が褒めたのですから、 「捕虜」を恥じる認識は更に拡大し、いわんや軍人の間では、捕虜になることは、死ぬより辛い、という思想が決定的に定着してしまいました。

  一方、欧米での「捕虜」という観念は、日本の軍隊の狂信的な「恥辱感」よりも、捕虜という「窮状」を如何に切り抜けるか、という解決策に重点が絞られました。こうした観念の違いが、捕虜の取り扱い方法でも大きな差を生み出したのです。

   も う一つ、見逃せないのは、空閑少佐事件をさかのぼる昭和3年(1928)、ジュネーブの国際議定書で、日本は「ガスや細菌を使った兵器のを禁止する」条約 の批准を見送った揚げ句、「捕虜を人間並みに処遇する」という捕虜条約に対し、陸海軍の大臣や外務大臣の「寛大過ぎて実行できない」という物言いを容れ、 田中義一首相が批准を保留してしまったことです。日本は(特に軍部が)国際社会から孤立することを望み、それを機会に国際連盟から脱退してしました。 その結果として、日本の戦争指導者たちは自国の軍人にも「捕虜」になることを禁止し、敵国の捕虜に対しても手厳しく取り扱うようになりました。

   支那大陸での『南京の大虐殺』をはじめ、太平洋戦争の初期、破竹の勢いで東南アジアを席巻した日本軍は、『バタアン半島、死の行進』の汚名を残し、昭和 17年4月18日、ドゥリトルのB−25が初の東京爆撃の後、支那に不時着し捕虜となった乗組員8名も、内3名は死刑に、1名は栄養失調で死亡という、容 赦のない苛酷な取り扱いを与えたのです。


  昭 和17年6月、ミドウエー海戦での失敗を契機に、日本軍は守勢にたち、ガダルカナル、ニューギニア、ギルバート諸島、マーシャル諸島、カロライン諸島、 アッツ島の玉砕など、次々と敗退してゆきました。前便で言及しましたが、不備な報道のおかげで、一般の国民は日本の兵隊たちが、勇ましく戦って死んでいっ たものだとばかり思っていました。ところが、次々と敗退した戦闘の都度、アメリカ側の捕虜になった日本兵がいたのです。それも一人や二人ではありません。 何千という日本兵が捕われたのです。

  
太 平洋戦争での捕虜第一号は、真珠湾攻撃の日に遡ります。『特殊潜航艇』と呼ばれた二人乗りの小型潜水艦が攻撃の重要な役割を果たしました。言うなれば「人 間魚雷」です。この特別攻撃隊は岩佐直治大尉を隊長とし、古野繁実中尉、横山正治中尉、広尾彰少尉、酒巻和男少尉、横山薫一等兵曹、佐々木直吉一等兵曹、 稲垣清二等兵曹、片山義雄二等兵曹、上田定二等兵曹の10名が選ばれ、あの日真珠湾に潜入し、潜航艇もろとも米艦を爆破して果てました。間もなく乗組員は 靖国神社に祀られ、軍部をはじめ、国民から『軍神』として賛美されたのですが、内一人、酒巻和男少尉の名が欠けていたのです。
実は酒巻の潜航艇は真珠湾の浅瀬に座礁し、アメリカ側に捕われたため生き延びました。これで、酒巻が太平洋戦争での捕虜の第一号ということになるでしょう。

   昭 和17年の夏から翌18年の2月まで死闘を繰り広げたガダルカナル戦では、日米両軍とも何千という将兵が死傷しましたが、日本軍の場合、補給が不完全だっ たため、多数の兵隊が飢え死にし、お粗末な冗談ですがガダルカナル島を『餓(ガ)島』と呼んだそうです。戦闘で疲労困憊し、餓えてジャングルで抵抗するこ とも、自決することもできずに辛うじて生き残っていた日本兵は、捕まってアメリカの捕虜として収容され、皮肉なことに、食物を与えられて生き延びることが できたのです。その代わりに、という訳でもありませんが、彼らは日系二世のアメリカ兵に訊問され、日本軍の兵力の配置とか、装備の状況などの情報を提供し ました。と言って、彼らを「裏切り者」と非難しないでください。アメリカ側は、すでに暗号解読の面でも日本側より一歩も二歩も進んでいたので、捕虜たちが 与えた日本軍の情報は、単に確認する程度の役にしか立っていなかったのです。

太 平洋の島々での戦闘で、一般人が関わり合ったのが、昭和19年(1944)夏のサイパン島の激戦です。戦況が不利になった時、日本軍の将校は一般人に「自 殺」を強要しました。「アメリカ兵に捕まると、男は殺され、女は強姦されてから殺される」と脅したのです。単なる脅しだけでなく、その将校もそう信じてい たのかも知れません。サイパン島の北端にある崖の上から、「捕まるより死んだ方がまし」と、老若男女が次々と飛び降り、崖下の入り江は自殺者たちの死体が 数えきれないほど浮かんでいた、ということです。その事態を予測したアメリカ軍は空から、何万枚も『降伏勧告』のビラを撒き散らしたのですが、あまり説得 力はなかったようです。

硫黄島では、栗林守備隊長の判断で、昭和20年(1945)3月の戦闘前に一般人を帰国させたため、守備隊だけが玉砕しました。捕虜になった者はいなかったようです。 昭 和20年の5月から8月の敗戦まで続いた最後の激戦地沖縄では、ご承知のように15万人近い現地人を含む22万人余りが犠牲になったのです。サイパン島の 時と同様な『降伏勧告』のビラが撒かれましたが、ビラの効果より偶然の結果で「捕虜」になり死を免れた人々も少なくありませんでした。アメリカ側は、非戦 闘員を保護(捕虜でなく)収容するために、30万人分の食料を準備していたということです。

  にも拘わらず、日本軍の野戦病院の手助け に参加し『ひめ百合部隊』の名で知られる、女子高校生222人の殆どが、「捕まったら陵辱されてタンクで踏みつぶされるから、その前に死ね」と命令した下 士官の脅しを信じて哀れにも潔く自決を遂げましたが、僅かですが28人が何らかの事情で「死に損ない」、捕虜として収容されたため助かったのです。

  与 那城信子(よなじょう、のぶこ)は『ひめ百合』生き残りの一人でした。戦火の中で日本語を話す(二世ではない)アメリカ兵に出会い、降伏を説得されて収容 され、戦後、縁あって別のアメリカ兵と結婚して渡米。落ち着いてから、彼女はテキサス大学、ミシガン大学で英文学を学び、戦時中の体験を私小説風に書いた 『琉球のひめ百合』で、作文コンテストの大賞を受けて出版され、後年、ミシガン大学で日本語の教師となりました。

  平成4年(1992)、日本行きの準備をしていたメリーは信子の講義を受けた後、東京三田の普連土学園(ふれんど・がくえん)で一年余り英語を教えてきました。人と人との出会いには、偶然とはいえない奇妙な縁を感じさせます。


   今 日、イラク戦争はブッシュが「勝利」を宣言した後もくすぶり続け、3年9ヶ月で終わった太平洋戦争を遥かに超える年月が経過してもまだ治まりません。民主 党が撤兵を迫っていますが、大統領は、巨額な国家予算をつぎ込んでもイラクに増兵して駐屯させる、と面子にこだわっています。その間に、イラク、アブグレ イブ収容所での捕虜虐待や、グァンタナモ・ベイに収容したテロの容疑者たちへの不当な取り扱いが表面化しました。「正義の味方、アメリカ」はどうなってし まったのでしょうか? -------------------------------------------------------
次の便では『バンザイ・チャージ』についてお届けいたします。


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