2007年6月19日

第4便:バンザイ・チャージ

バンザイ・チャージ

    青葉茂れる桜井の、里の辺りの夕まぐれ、
    木の下陰に駒寄せて、世の行く末をつくづくと、
    偲ぶ鎧(よろい)の袖の縁(え)に、散るは涙か、はた露か。

   これは、私の世代が小学校で習った唱歌、『桜井の別れ』の第一節で、未だに脳裏にこびりついています。14世紀の初頭、あの楠木正成(くすのき、まさしげ)が、朝敵(ちょうてき、、、反天皇の一族で、「賊」とも呼ばれた)足利尊氏(あしかが、たかうじ)と対決するため兵庫の湊川へ向かう途路の桜井の駅で、息子の正行(まさつら)と別れる場面です。
   正成は、この時点で、湊川での対決が勝ち目のない戦で、討ち死には免れないことを十分に承知していました。では何故?

   正成にとって、「勝ち負け」よりも、「天皇への忠誠を身をもって示す」ことの方が重要だったのです。その時「七たび生まれ替わって朝敵を滅ぼさん」という名言を残し、予想通り、正成の率いる軍勢は戦いに敗れ、自らも討ち死にしました。そして更にその先も予想通り、正成の「犠牲的な精神」が、全国に散在していた天皇派の士族を刺激して蜂起させ、結果として足利尊氏は滅ぼされ、天皇の地位を復活させるのに役立ったのです。

   天皇は正成の忠誠を褒め讃え、楠木家一族に天皇家の紋章である『菊』を与えました。一族は一旦辞退しましたが、菊の半分を水に流し、『菊水』を紋章として拝受することになりましたこの一事が美談として伝えられ、昭和初期の唱歌の重要な一曲に加えられ、私たち小学生の天皇に対する忠誠心を養ったのです。

   さて、ここで一抹の疑問が生じます。果たして、「天皇側が常に絶対的な正義であり従って『善』で、それに反逆する者は『悪』である」という観念が正しかったのでしょうか?でも、この疑問の是非を論ずるのは、今便の目的ではありませんので、後日改めて提起いたします。

    ともあれ、正成の「犠牲的な精神」は、小学生から始まって、当時の日本国民の全てに基本的な道徳として教えられ、特に軍人たちは「死を恐れぬ」覚悟と共に徹底的に叩き込まれたのです。この精神が前便の『捕虜』になることを恥じ、むしろ死に物狂いで敵にぶつかるという行動を賞賛する傾向を生みました。駿馬にまたがった楠木正成の銅像が宮城前に、爆弾筒をかかえて敵の鉄条網に突っ込み、爆破して果てた肉弾三勇士の彫刻が東京神田の街頭に、それぞれ設置され、日夜、何千何万という通行人の目に触れ続けました。

   こうして大日本帝国陸海軍の『軍人精神』は、着実に定着し、昭和12年の支那事変から、昭和16年の太平洋戦争へと拡大してゆきました。12月8日の真珠湾攻撃は計画通り成功し、日本の軍事的勢力は疾風迅雷の勢いで東南アジアから南太平洋を席巻しましたが、翌昭和17年、6月のミッドウエィ海戦で主力航空母艦を失い敗退して以来、守勢に立たされました。

    昭和17年の後半から、ガダルカナルを含むソロモン群島、ニューギニア沿岸の日本の守備軍は次々と敗退してゆきました。上陸、攻撃するアメリカの海兵隊の死傷者も相当な数にのぼりましたが、島々の守備隊は、戦う度に「全滅」するまで抵抗を続けました。「今はこれまで、、」という勝ち目のない事態に陥った時、守備隊の生き残りは銃剣を握り、手榴弾を掴み、あるいは日本刀を振りかざし、敵陣に突入して行ったのです。決死の攻撃は夜間が選ばれました。敵が油断しているだろう、という予想からでした。奇声を発し、武器を振りかざし、「天皇陛下ばんざーい!」と叫び、がむしゃらに突っ込んだのです。

   こうした攻撃は、海兵隊の若い新兵たちを脅かすには十分でしたが、機関銃の弾幕を避けることはできず、最後の一兵まで撃ち殺されてしまいました。正に湊川の戦いで敗れて散った楠木正成の精神を実践していたのです。これが度重なると、アメリカの海兵隊も慣れて、「今夜あたり日本兵の『バンザイ・チャージ』が来るぜ」と、それなりの対抗策をとるようになりました。

昭和18年の後半、タラワ、マキン島などの珊瑚礁の島々での攻防戦あたりから、日本守備隊は、コンクリート壁の地下壕に潜って徹底抗戦という作戦に変っていきました。これで、アメリカの海兵隊を著しく悩ませたのですが、結局は『バンザイ・チャージ』で次々と「玉砕」してしいきました。

   昭和19年の夏、マリアナ諸島のサイパン島、テニアン島、ガム島、が陥ち、日本列島はアメリカ爆撃機の射程距離に入り、『絶対国防圏』と設定した日本の縄張りが狭まったため、大本営では『捷(しょう)一号』、『捷二号』、『捷三号』、『捷四号』という決戦作戦を立てました。『捷(しょう)』とは『勝(しょう)』に通じる、という文字の遊びとしか思えない無意味な作戦です。『捷一号』はフィリッピン、台湾辺りで、『捷二号』は沖縄辺りで敵の侵攻を食い止める、という積もりだったのでしょう。

   加えて、『菊水作戦』が立てられました。何のことはない、楠木正成の「死を賭して敵に向かう」精神をなぞらった作戦で、残り少ない飛行機に爆弾を積み、パイロット諸とも敵艦に突っ込んで沈没させようという考えでした。正式な『神風』特攻隊の誕生です。大半が無駄死にで、アメリカの攻撃を止めることはできませんでした。

   
硫黄島が玉砕し、沖縄が危うくなった時、あの世界最大級の戦艦『大和』に沖縄援護の出撃命令が下されました。『菊水作戦』の本番です。でも艦長の伊藤整一中将は(下中央の写真)、空母の護衛なしで戦艦を無傷で沖縄まで航行させるのは不可能だ、と不服を唱えました。それに対して連合艦隊参謀長の草鹿龍之介(くさか、りゅうのすけ)中将は「日本国民全員が本土決戦を前に死ぬ覚悟でいる。大和には、その国民の先魁(さきがけ)になってもらいたいのだ」と応えたのです。言い換えると、大和が撃沈されても構わない。武勇伝を残してくれればよいのだ、ということだったのです。伊藤中将は、草鹿の言外の意味を汲み取り、出撃命令を受け、巡洋艦、駆逐艦を伴って沖縄へ向かいました。「大和」艦隊が鹿児島、薩摩半島の沖に達した時、100機の艦上爆撃機に襲われて被爆、更に第2波140機の攻撃も受け、最後に第3波100機余りに止めの魚雷数本を打ち込まれ、さすがの巨艦も耐えきれず沈没、直後爆破してしまいました。今日でも、大和は苔むして海底に横たわっています。大和3009名の乗組員の内、2733名が艦と運命を共にしました。大和の舳先に取り付けてあった菊の紋章が『菊水作戦』の末路を象徴していたようです。(下左の写真は、数年前に日米仏の潜水エキスパートが撮影したもので、直径2メートルの菊の紋章が確認されました。)

   昭和20年の4月、たとえ戦艦大和の救援があったとしても、沖縄陥落は時間の問題でした。アメリカ軍の次の目標は九州攻略、つまり日本本土の侵略です。日本の運命は正に「風前の灯火」、でも軍部は「最後の勝利」を叫び続け、『決号(けつごう)』と名付けた本土決戦作戦を発表しました。これは、軍人だけでなく、老若男女を問わず、非戦闘員の日本人全てが「最後の一人が死ぬまで戦う」ことを義務づけた作戦計画でした。勿論まともな武器などはありません。竹竿の一端を鋭く削った『竹槍』をあやつる戦闘訓練が大真面目で始められました。各自「一人一殺」、アメリカ兵を一人だけでよいから殺せ、というのが目標の命令でした。

    同時期に、私ども予科練生の中から何人かが選ばれて、『伏龍(ふくりゅう)作戦』の訓練を受けるため横須賀の南、久里浜へ向かいました。『伏龍』は、爆弾を身に付け、アメリカ軍が上陸するであろうと予想される沿岸の水中に潜み、上陸用舟艇を爆破する、という使命を負っていました。いずれも『バンザイ・チャージ』の変形です。

  8月6日と9日に原爆が広島と長崎にそれぞれ落とされ、天皇がポツダム宣言を受諾し降伏したため、不幸にして幸、『竹槍』と『伏龍』による『バンザイ・チャージ』は実現しませんでした。

   敗戦から60余年経った今日、時たまアメリカ人から『バンザイ』の意味を聞かれると、私は返答に窮します。というのは、彼らに『バンザイ』を説明するには、日本の神話的な歴史から、天皇の尊厳性、そして日本人の天皇に対する特殊な思いまで解説しなけらばならなりません。そして私にとって、そうした全てが遠い過去になってしまったからです。

   でも「一生に一度だけ」と思い直し、過去になってしまった私の思い出を掘り起こし、シコシコと書き綴り、繋ぎ合わせている昨今です。
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次便は、『暗号』についてお伝えします。
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