2007年6月9日

第3便:捕虜

捕 虜

日本の武士は、伝統的に「捕われることを不名誉で恥ずべきこと」という認識にこだわっていました。その意識が「生きて虜囚の辱めを受ける」よりは「死」を選ばせることになったのです。
そ の代表的な例が、上海事変で中国軍に捕われた空閑昇(くが、のぼる)少佐です。昭和7年(1932)2月、捕虜交換で釈放されて帰国した空閑少佐は、捕虜 になったことを恥じ、その償いとして自らの命を絶ってしまいました。時の陸軍大臣荒木貞夫は、空閑少佐を「軍人の鑑(かがみ)」として口を極めて褒め讃 え、後に靖国神社に祀られることになったのです。一般の中には、「せっかく命拾いをしたのに」と同情する人々もいたのですが、大臣が褒めたのですから、 「捕虜」を恥じる認識は更に拡大し、いわんや軍人の間では、捕虜になることは、死ぬより辛い、という思想が決定的に定着してしまいました。

  一方、欧米での「捕虜」という観念は、日本の軍隊の狂信的な「恥辱感」よりも、捕虜という「窮状」を如何に切り抜けるか、という解決策に重点が絞られました。こうした観念の違いが、捕虜の取り扱い方法でも大きな差を生み出したのです。

   も う一つ、見逃せないのは、空閑少佐事件をさかのぼる昭和3年(1928)、ジュネーブの国際議定書で、日本は「ガスや細菌を使った兵器のを禁止する」条約 の批准を見送った揚げ句、「捕虜を人間並みに処遇する」という捕虜条約に対し、陸海軍の大臣や外務大臣の「寛大過ぎて実行できない」という物言いを容れ、 田中義一首相が批准を保留してしまったことです。日本は(特に軍部が)国際社会から孤立することを望み、それを機会に国際連盟から脱退してしました。 その結果として、日本の戦争指導者たちは自国の軍人にも「捕虜」になることを禁止し、敵国の捕虜に対しても手厳しく取り扱うようになりました。

   支那大陸での『南京の大虐殺』をはじめ、太平洋戦争の初期、破竹の勢いで東南アジアを席巻した日本軍は、『バタアン半島、死の行進』の汚名を残し、昭和 17年4月18日、ドゥリトルのB−25が初の東京爆撃の後、支那に不時着し捕虜となった乗組員8名も、内3名は死刑に、1名は栄養失調で死亡という、容 赦のない苛酷な取り扱いを与えたのです。


  昭 和17年6月、ミドウエー海戦での失敗を契機に、日本軍は守勢にたち、ガダルカナル、ニューギニア、ギルバート諸島、マーシャル諸島、カロライン諸島、 アッツ島の玉砕など、次々と敗退してゆきました。前便で言及しましたが、不備な報道のおかげで、一般の国民は日本の兵隊たちが、勇ましく戦って死んでいっ たものだとばかり思っていました。ところが、次々と敗退した戦闘の都度、アメリカ側の捕虜になった日本兵がいたのです。それも一人や二人ではありません。 何千という日本兵が捕われたのです。

  
太 平洋戦争での捕虜第一号は、真珠湾攻撃の日に遡ります。『特殊潜航艇』と呼ばれた二人乗りの小型潜水艦が攻撃の重要な役割を果たしました。言うなれば「人 間魚雷」です。この特別攻撃隊は岩佐直治大尉を隊長とし、古野繁実中尉、横山正治中尉、広尾彰少尉、酒巻和男少尉、横山薫一等兵曹、佐々木直吉一等兵曹、 稲垣清二等兵曹、片山義雄二等兵曹、上田定二等兵曹の10名が選ばれ、あの日真珠湾に潜入し、潜航艇もろとも米艦を爆破して果てました。間もなく乗組員は 靖国神社に祀られ、軍部をはじめ、国民から『軍神』として賛美されたのですが、内一人、酒巻和男少尉の名が欠けていたのです。
実は酒巻の潜航艇は真珠湾の浅瀬に座礁し、アメリカ側に捕われたため生き延びました。これで、酒巻が太平洋戦争での捕虜の第一号ということになるでしょう。

   昭 和17年の夏から翌18年の2月まで死闘を繰り広げたガダルカナル戦では、日米両軍とも何千という将兵が死傷しましたが、日本軍の場合、補給が不完全だっ たため、多数の兵隊が飢え死にし、お粗末な冗談ですがガダルカナル島を『餓(ガ)島』と呼んだそうです。戦闘で疲労困憊し、餓えてジャングルで抵抗するこ とも、自決することもできずに辛うじて生き残っていた日本兵は、捕まってアメリカの捕虜として収容され、皮肉なことに、食物を与えられて生き延びることが できたのです。その代わりに、という訳でもありませんが、彼らは日系二世のアメリカ兵に訊問され、日本軍の兵力の配置とか、装備の状況などの情報を提供し ました。と言って、彼らを「裏切り者」と非難しないでください。アメリカ側は、すでに暗号解読の面でも日本側より一歩も二歩も進んでいたので、捕虜たちが 与えた日本軍の情報は、単に確認する程度の役にしか立っていなかったのです。

太 平洋の島々での戦闘で、一般人が関わり合ったのが、昭和19年(1944)夏のサイパン島の激戦です。戦況が不利になった時、日本軍の将校は一般人に「自 殺」を強要しました。「アメリカ兵に捕まると、男は殺され、女は強姦されてから殺される」と脅したのです。単なる脅しだけでなく、その将校もそう信じてい たのかも知れません。サイパン島の北端にある崖の上から、「捕まるより死んだ方がまし」と、老若男女が次々と飛び降り、崖下の入り江は自殺者たちの死体が 数えきれないほど浮かんでいた、ということです。その事態を予測したアメリカ軍は空から、何万枚も『降伏勧告』のビラを撒き散らしたのですが、あまり説得 力はなかったようです。

硫黄島では、栗林守備隊長の判断で、昭和20年(1945)3月の戦闘前に一般人を帰国させたため、守備隊だけが玉砕しました。捕虜になった者はいなかったようです。 昭 和20年の5月から8月の敗戦まで続いた最後の激戦地沖縄では、ご承知のように15万人近い現地人を含む22万人余りが犠牲になったのです。サイパン島の 時と同様な『降伏勧告』のビラが撒かれましたが、ビラの効果より偶然の結果で「捕虜」になり死を免れた人々も少なくありませんでした。アメリカ側は、非戦 闘員を保護(捕虜でなく)収容するために、30万人分の食料を準備していたということです。

  にも拘わらず、日本軍の野戦病院の手助け に参加し『ひめ百合部隊』の名で知られる、女子高校生222人の殆どが、「捕まったら陵辱されてタンクで踏みつぶされるから、その前に死ね」と命令した下 士官の脅しを信じて哀れにも潔く自決を遂げましたが、僅かですが28人が何らかの事情で「死に損ない」、捕虜として収容されたため助かったのです。

  与 那城信子(よなじょう、のぶこ)は『ひめ百合』生き残りの一人でした。戦火の中で日本語を話す(二世ではない)アメリカ兵に出会い、降伏を説得されて収容 され、戦後、縁あって別のアメリカ兵と結婚して渡米。落ち着いてから、彼女はテキサス大学、ミシガン大学で英文学を学び、戦時中の体験を私小説風に書いた 『琉球のひめ百合』で、作文コンテストの大賞を受けて出版され、後年、ミシガン大学で日本語の教師となりました。

  平成4年(1992)、日本行きの準備をしていたメリーは信子の講義を受けた後、東京三田の普連土学園(ふれんど・がくえん)で一年余り英語を教えてきました。人と人との出会いには、偶然とはいえない奇妙な縁を感じさせます。


   今 日、イラク戦争はブッシュが「勝利」を宣言した後もくすぶり続け、3年9ヶ月で終わった太平洋戦争を遥かに超える年月が経過してもまだ治まりません。民主 党が撤兵を迫っていますが、大統領は、巨額な国家予算をつぎ込んでもイラクに増兵して駐屯させる、と面子にこだわっています。その間に、イラク、アブグレ イブ収容所での捕虜虐待や、グァンタナモ・ベイに収容したテロの容疑者たちへの不当な取り扱いが表面化しました。「正義の味方、アメリカ」はどうなってし まったのでしょうか? -------------------------------------------------------
次の便では『バンザイ・チャージ』についてお届けいたします。


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