ユダヤ人を救った日本人
数年前のことです。ディアボーンの小学校に招かれて、私の戦時中の体験を話すことになりました。ディアボーン市は、フォード・モーター社のお膝元で、本社ならびに国際事業本部があり、また中近東系の移民コミュニティがあることでも知られています。 私の他にユダヤ人のゲスト、ジョシュアが招かれ、同様に戦時中の体験を生徒たちに聴かせていました。彼の話は、ドイツの独裁者ヒットラーが率いるナチの「ユダヤ人殺戮計画」から辛うじて免れた生存者としての体験でした。 講演が済んだあと、私はジョシュアから「ユダヤ人を救ってくれた日本人、ミスター、スギハラのことを知っているか?」と尋ねられました。恥ずかしながら、私はスギハラなる人の名前さえ聞いたことがありませんでした。ジョシュアは、簡単にその経緯を話してくれ、数日後、スギハラに関する資料を一抱え、わざわざ私の家まで届けてくれました。以下は、スギハラの生涯にまつわる抜き書きです。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
杉原千畝(すぎはら・ちうね、後に、せんぽ)は、1900年(明治33年)の元日に生まれました。母方は武士の家系で、それなりに厳しく躾けられ、活動的な青年に成長しました。父親は千畝が医者になることを望みましたが、本人はむしろ進歩的な早稲田大学の英文科を選んだため、仕送りを断たれアルバイトなどで学費を工面して学業を続けました。在学中、外務省の留学生となり、訓練を終え、満州のハルビンに設置された日本領事館に派遣され、ロシア語を習得し、ロシア人女性と結婚しました。時まさに満州事変が起こり、更に支那事変に発展し始めた頃です。数年足らずで離婚、帰国、東京で外務省に勤務、1935年(昭和10年)再婚し、翌年息子が生まれ、間もなくロシアの日本領事館に赴任、語学力と外交能力を買われ、次第に重要なポストを与えられるようになりました。 1937年(昭和12年)千畝はフィンランドへ転任、2年後の1939年(昭和14年)9月1日、ドイツがポーランドに侵攻して、第二次世界大戦が勃発しました。
当時、日本はロシアとは不可侵条約を、ドイツとは三国同盟を結ぶという、微妙で難しい立場にあり、ポーランドとロシアの間に挟まれたリトアニアに領事館を設置したのです。そこへ駐在させた千畝は、ロシア語が堪能でドイツ語も習得していて、正に最適な領事代理の人材でした。そのリトアニアには、ナチに追われたユダヤ人25,000人余りが、不安の日々を過ごしていました。
その年の暮れハヌカ(ユダヤ教、神殿清めの祭)の日、11才のソリィ・ガノア(Solly Ganor)少年は、少々の小遣いをポケットに、雑貨屋で菓子を買おうか、映画を見ようか、と迷っていました。たまたまその雑貨屋に居合わせて、ソリィ少年の様子を眺めていたのが杉原千畝でした。なにがしかの貨幣を取り出し「これで好きなものを買いなさい」とソリィに渡そうとしました。少年は「ありがとう。でも知らない人からお金を貰うわけにはいきません。」と辞退しました。千畝は「まあいいじゃないか。私をオジさんだと思ったら遠慮することはないさ。」ソリィは、ためらいながら千畝からお金を受け取り、「では、オジさんなら、今晩うちのハヌカ祭りの晩餐にきてください。」
その夕方、千畝は妻のゆき子を伴ってガノア家を訪れました。ソリィ少年を始め一家は、思いがけない賓客に驚き、かつ歓喜し楽しく暖かい晩餐がはじまりました。(下の写真は、典型的なハヌカ祭りの集会。右上がソリィ少年。右下は65年後のソリィ。)

 そうこうしている中に、リトアニアに住むユダヤ人に危険が迫り、亡命以外に生存するのが難しい状態に追い込まれてきました。西からナチの軍隊が攻めてくるのですから、東へ行く以外に道はありません。結論として、シベリア大陸を横断し、ウラジオストックから神戸へ行き、そこからカリブ海にあるオランダ領のクラサオ島へ亡命する、という方法をとることにしたのです。シベリア通過は旅券だけ、受け入れ側のクラサオ島は査証は不要、あとは日本の通過査証さえあればリトアニアから脱出できることが判りました。
その日から杉原千畝領事が一人で運営している領事館に、査証を申請するユダヤ人が殺到してきました。千畝は早速「査証発行の許可」を外務省に申請しましたが返事がありません。再三再四、許可を求めましたが、一向に反応なしでした。日本は独伊と三国同盟を結び、「ユダヤ人排斥」には同意しなかったものの、ヒットラーに対する配慮から、ユダヤ人を積極的に助けることはしない方針でした。千畝は当然、日本政府の方針は承知していましたが、領事館の前に群れをなすユダヤ人達の悲しそうな、そして切羽つまった表情の意味を痛いほど理解していました。千畝は、外務大臣の許可を待つ猶予はない、と判断し独断で査証を発行することにしました。 後日、この時の心境を「査証を発行したら、自国の方針に背くことになるが、査証を発行しなかったら、神のみ心の背くことになる、と直感した」と語っています。  一日に200人余り、手書きで目的、日付、肩書き、署名、捺印、一件や二件でしたら、簡単な仕事ですが、200件となるとたいへんな作業です。それも毎日続いたのです。千畝は毎日16時間は査証を書き続けました。中には書類が不備だったり、旅券すら持っていない申請者もいました。千畝は書類に頼らず、申請者の真剣な表情だけでその必要性を判断し査証を発行しました。折も折、事もあろうに、領事館の閉鎖が決定され、千畝にベルリンへ転勤という命令が下ったのです。引っ越し準備をしている間にも、ユダヤ人の査証申請者が詰めかけ、千畝は時間を割いて査証を発行し続け、その日は疲れ果て、一晩ホテルで過ごすことにしましたが、そこへも申請者が押し掛け、翌朝、ベルリン行きの汽車に乗ってからでも査証を求めるユダヤ人達が追いすがってきました。汽車が動き始め、遠ざかってゆくのをプラットホームで見送るユダヤ人達は、口々に「ありがとう、このご恩は忘れませんよ」と叫ぶ者、査証がもらえず、うなだれる者、悲喜こもごもでした。
結果として、千畝は2000件以上の査証を発行したことになります。 日本の通過査証を手にしたユダヤ人亡命者たちは、様々な障碍に廻り会いながら、大半は神戸のユダヤ人組織に助けられ、そこから四散して生存することができました。
一方、時間切れで千畝の査証を貰えなかったリトアニアのユダヤ人達は、ナチの強制収容所へ引き立てられてしまいました。前述のソリィ・ガノア少年もその一人で、収容所生活を余儀なくされました。ご承知の通り、収容所とは名ばかりで、囚人たちは餓死寸前で、遠からずガス室に送られ毒殺される運命にあったのです。その日がきました。家畜同然に追い立てられ、ガス室に行進を始めました。ソリィ少年は、疲労と空腹で道ばたに倒れ失神してしまいました。「運良く」誰も気がつきませんでした。
ふと気がつくと、鉄兜を冠った兵隊がソリィの顔をのぞき込んでいたのです。「やあ生きていたね。もう大丈夫だよ」英語でした。でも顔はソリィが知っていたスギハラ・チウネみたいでした。ソリィの混乱を察したように兵隊は、「俺たちはアメリカ兵だよ。日系のね。」ヨーロッパ戦線で活躍していた442二世部隊の一人でした。こうしてソリィは救われ、アメリカへ渡りました。
日本の降伏後、杉原千畝一家はロシアの収容所に抑留され、1年間強制労働で過ごした後帰国し、1947年(昭和22年)外務省に復帰しましたが、間もなく解雇されました。千畝の上司は「理由は君がよく知っている筈だ」と言っただけでした。査証の無制限発行が背信行為だったことをよく知っていた千畝は一言も釈明しませんでした。千畝47才でした。まだ働き盛り、でも人生のやり直しには年をとり過ぎていました。家族を支えるために様々な雑用をした後、モスクワに単独で渡り、16年間恵まれない仕事に就いていました。
こうした千畝の不遇時代に、彼が発行した査証で救われたユダヤ人達が、何とか謝礼をしたいと彼の居所を探していました。その一人マービン・トカヤー(Marvin Tokayer)は遂に千畝を探し当て、面接が叶ったのです。でも千畝に釘をさされました。「私は正しいと判断したことをしただけです。謝礼とか表彰などを受けることはできません。世間に公表などもしないで下さい。」
アメリカに渡ったソリィは、最終的にイスラエルに落ち着き、同地の「査証生存者」を組織し、千畝の次男にヘブライ大学の奨学生として招く、という提案を出しました。あらゆる謝礼や表彰を断っていた千畝も、息子のためならと、この申し出でを受けたのです。断り続けていた表彰も、イスラエルから『国家間の善行賞』メダルが届き、出生地には立派な記念碑が建てられ、竹下前首相も「杉原千畝は日本の誇るべき良心の持ち主」だと絶賛しています。 
「背信の善行」を行った杉原千畝は、1986年(昭和61年)7月、86才の生涯を閉じました。 ----------------------------------------------------------------------------------------------------------- 次便は、『捕虜』についてお送りいたします。私のホームページは、ここをクリックするとご覧になれます。

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