
『銃後』という言葉を覚えていますか?コンピューターで「じゅうご」と入力したら出てきませんでした。どうやら死語になってしまったようです。それもそうでしょう、日本では太平洋戦争が終わってから60年以上も平和なの年月が続いたのですから、アフリカや中近東の人々に比べたら幸せという他はありませんね。
平和に慣れ切っている皆様に、戦争中の話しをするのはいささか気が引けますが、たまに当時の日々を偲んでみるのも、平和のありがた味を感謝するのに役立つのではないかと思います。
『銃後』の反対語は『前線』です。この場合、前線とは『気圧前線』とかの気象用語ではなく、銃をとって敵と戦っている軍隊とか、その戦場を指し、従って『銃後』とは直接戦っていない国民、そして戦場でない本国のことです。
今日のアメリカがそうですが、戦争に巻き込まれると、国家予算の半分近くが軍事費に回され、勝つためにはそれでも足りないからもっと予算を増やせ、と圧力がかかり、そのしわ寄せが国民の生活費に及んできます。
日本ではこの現象が日本が支那(中国)と戦いを始めた昭和12年(1937)から起こりました。先ず槍玉に上がったのはガソリンだったのですが、当時、自家用車を持っている家庭が殆どなかったので我々庶民は一向に痛痒を感じませんでした。それも束の間で、主食の米が配給制となり、分量も限定され、国民は慢性的な空腹をかかえ始めたのです。米は白米から七分搗き、やがて不足分を補うために麦を加えるようになりました。米に続いて砂糖、その他の食料が次々と欠乏し、レストランはおおむね開店休業、雑炊(ぞうすい)食堂だけが残り、スープ同然の粥一杯を求める客が行列を作りました。
食料の次は衣料が配給制限の対象となり、木綿、毛織物、は兵隊の制服に、絹はパラシュートに優先し、それに替わって木材の繊維を使ったステーブル・ファイバー、略してスフが登場し、庶民の衣服の材料となり、革靴は牛革製は兵隊に、庶民の靴は豚革とかクジラ革で作られるようになりました。
金銀などの貴金属製品ーー指輪、時計などーーは半ば強制的に供出(寄付と言わず)させられ、結局使われず、持ち主には返されず、どこかへ消え、何の役にも立たなかったようです。
「欲しがりません、勝つまでは」、、、ある子供が応募して選ばれた標語が全国的に広がったのは太平洋戦争が始まった昭和16年前後だったと思います。
アメリカの銃後
日本に比べ、物質的に豊かだったアメリカでも、膨大な軍事予算のしわ寄せで国民の生活は節約を余儀なくされました。
既に一家に一台のクルマ生活を達成していたアメリカで、ガソリンの配給制度は衝撃的な打撃を与えました。自動車メーカーは乗用車の生産を中止し、軍用車両の生産に100パーセント投資したため、古い車を大事に使い、遠出を慎むようになり、続いて食料、タバコなどが制限配給制の対象となりましたが、空き腹を抱えるほど追いつめられてはいなかったようです。
こうした制限制度は、1941年(昭和16年)に新設された価格統制局(Office of Price Administration—OPA) で設定されるようになり、同局が直面した最大の困難はタイア用ゴムの不足でした。当時、ゴム生産の中心地、東南アジアが日本に征服されていたためです。
皮革製品は軍用優先だったため、制限の対象にはなりましたが、豚革で代用するほど緊迫してはいませんでした。
フィリッピンが日本に占領されていたので、同国製の砂糖が輸入できず、また輸送船が軍用に回されていたため、南米産のコーヒーが絶たれ、代用品の大豆や麦などで間に合わせざるを得ない状況でした。食料で一番深刻だったのは、牛肉の不足でした。日本での米不足に匹敵します。これも軍隊向けが優先したからです。総生産113億キロの牛肉から27億キロが兵隊の胃袋向けに回されていました。この時期にアメリカ人の多くが初めて馬肉やウサギ肉を試食したということです。こうした現象が牛泥棒や、ブラックマーケット(闇市)の発生を促したのです。
新鮮な野菜や果物も、輸送事情の困難から不足と価格の高騰をもたらしました。最大の生産を誇っていたカリフォルニアから、その三分の一の生産を担っていた日系人農民を強制収容したことも青果不足に輪をかけたのです。それがヴィクトリー・ガーデン(勝利の菜園)と呼ばれる家庭菜園を普及させる動機を生み、最盛期には全国推定2千万のヴィクトリー・ガーデンが存在し、100万トンの青果の生産を上げ、価格に換算すると8千500万ドルにも上ったということです。


紙も不足し、出版物を小型にするとか、活字を小さくすとかの対策で応じました。

成年男子の入隊が労働力不足をもたらしたのは日本の場合と同じです。女性の職場進出は目覚ましく、従来男でなけらばできない、と思われていた工場での機械工のような仕事に女性が積極的に働くようになりました。
こうした物資欠乏、人手不足の時代に、アメリカの国民は政府が発行したボンド、いわゆる国債を買い求め、39億ドルの国家予算の半分近くの16億ドルを補ったのです。この国債がその後どうなったか、生憎資料がみつかりません。日本での場合は、敗戦後、国債はインフレと共に価値が下落の極に達し紙くず同然になった、と私は記憶しています。平和に慣れた皆様方も、戦争が如何に非戦闘員の人生に苦しく悲しい思いをもたらすか、ご想像ください。『銃後』という言葉が永遠に死語であり続けることを願います。
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次便は『アメリカの終戦』をお届けいたします。
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